扉の向こうに立つ女
口裂け女とは、1979年に小学生を中心に広まり、社会現象にまでなった噂話である。下校中の子供にマスクをした女が「わたしきれい?」と訊ねてくる。正しく答えなければ殺されるという話だ。
私が生まれたのは70年代後半。小学校に入学した頃にはとうに騒ぎは収まっていたが、子供の間で、口裂け女という妖怪の存在は定着していた。
通っていた小学校では、トイレの花子さんのように「決まった場所に出る妖怪」として語られていた。
小学校の校舎裏に大きな桜の木があった。
桜の季節の放課後に、一人で木の下へ行くと扉があらわれる。扉の向こうには長い黒髪の女がいる。その女は口裂け女だ。
校舎裏と呼ばれていた場所は、グランドと昇降口がある方角を正面――表とした場合の反対側で、ヘチマや朝顔といった教材の植物を育てる花壇と、駐車場があるだけのスペースだった。休み時間になれば生徒で賑やかになるグランドとは違い、人気の少ない場所だったと記憶している。
オリジナルの口裂け女の話が恐ろしく、もしそんな妖怪に遭遇したらどうしようと本気で怯えていた時期があった。たぶん小学校1,2年の頃だ。
怖いはずなのに、時々、校舎裏のことを想像した。
桜の木の下にあらわれる扉。
扉は木製で白く塗られている。板チョコのような凹凸があり、ホワイトチョコのどこでもドアのようだ。
ゆっくりと、こちら側にむかって扉が開く。
扉の向こうには、ワンピース姿の女が立っている。
その女の顔を想像することはできなかった。
頭の中に、怖い顔のストックはあったと思う。家には祖母が買った日本人形があったし、学習雑誌で夏場に特集される怖い話を読み、おどろおどろしい挿絵に怯えた。怖がりなのに、なぜかこの手の読み物はよく読んでいた。
何かしらふさわしい怪異の姿をあてはめることができたはずなのに、幼い私はそれをしなかった。
ある日を境に、想像の中の女に顔ができた。
長い黒髪の白い肌の女で、赤い紅をさしている。
一重できりっとしたアイラインを引いた、美しい女。
初めに女に顔がなかったことを思い出したのは、かなり成長してからである。
私にはこの手の混沌とした記憶がたくさんあり、ふとした瞬間に思い出したり、記憶の矛盾点が浮かびあがったりする。
人の記憶はいい加減だというし、空想好きな自分のことだから、ふとした拍子に記憶をねつ造しているだけなのかもしれない。
成長するにつれ、校舎裏の扉の話を忘れていった。扉の向こうの美しい女を想像することもなくなった。
三十年以上の月日が経ち、雑誌をめくっていたら女がいた。
山口小夜子である。
1971年にプロのモデルとしてデビューし、パリコレにアジア系モデルとして初めて出演した伝説のモデルだ。1973年から1986年まで資生堂の専属モデルとして活躍。ポスターやCMにも登場した。
ネットで検索すると、すでに鬼籍に入っていた。東京都現代美術館で展示会が催されているのだという。雑誌の写真は展示会の記事だった。
展示会には行けないので図録を買い求めた。
切れ長の一重まぶたにくっきり引かれたアイライン。ストレートの黒髪。赤く塗られた唇。日本人形に命を吹き込んだらこんな感じだろう。
扉の向こうの女に顔ができたのは、幼い頃、CMやポスターで彼女を見たからかもしれない。
図録の写真はどれも鮮烈で、大人になった私の心に山口小夜子の姿は焼きついた。
本を片手に酒を飲む
ゴールデンウィークだが、レジャーらしいレジャーの予定はない。一応、娘の顔を見せに双方の実家へ行くことが決まっているが、他にすることがない。
天気がいいようなので、衣替えや毛布の洗濯を考えているが、せっかく夫が家にいるのだから、娘をまかせて昼間から本を読みながら飲むことにした。晴れた日の真っ昼間から飲む酒ほど贅沢なものはない。
お酒が好きだ。
酒の種類は何でもいい。ビール、日本酒、ワイン、焼酎、ウィスキー、何でも飲む。そういえば、嫁入り道具は酒器とラフロイグと百年の孤独だった。
暑い日は、日本酒か、ワインがいい。ワインは赤白どちらでも構わない。
日本酒は、すっきりした飲みやすい味を好むので、鯉川や雁木が好きだ。鯉川は純米酒4合瓶で1100円。雁木は純米 無濾過 生原酒が4合瓶で1382円。家飲みはリーズナブルだ。
すっきりとした飲みやすさを好むなら鯉川。雁木は香りがよくてまろやか。ほんのりと甘い。どちらとも、日本酒を飲まない人にもすすめられると思う。
ワインはというと、赤ならゴヤ・シラーズ・ピノタージュ。南アフリカでワールドカップが開催された年に、南アフリカのワインは美味しいと覚えた。780円。芳醇な果実の香り。渋みが少ないので飲みやすい。1000円以下とは思えない味。
白ならM.シャプティエ。フランスのワイン。甘めの白だが、品のいい甘さなのでいくらでも飲める。飲んでいて、香りのいい果実が舌の上を滑っていくような感覚が好き。夏の暑い日によく冷やして飲みたい。980円。
※お酒の値段は、日本酒は酒蔵のHPに掲載されている価格。ワインは楽天などのネットショップの価格です。
孫悟空ではないけれど
ドラゴンボールを読んでいた夫が真顔で「悟空のようになるのが目標だった」と言った。
宇宙最強の男になりたかったのかと尋ねたところ「違う」と即答された。
悟空が能力を活かし、どこででも生きていく姿を見て、自分もそうなりたいと思ったのだという。夫は組織にいるよりも、自分の采配で仕事をすすめたいタイプなので納得した。
子供の頃から冒険物語が好きだった。ナイフやロープ、その他道具を巧みに使いピンチを切り抜ける主人公。道具を使いこなせる人は凄いなぁ、強いなぁと漫画や小説の主人公を尊敬した。
家の中は、冒険物語に登場する道具よりはるかに便利なものであふれている。だが、大抵の道具はブラックボックスで、しくみを理解せずに使っている。スイッチを入れれば望みの作業が行われる。考えずとも結果が得られる。
チンパンジーの賢さをはかるため、自動販売機の使い方を教え、実行させる。好きな飲み物を手に入れるためにボタンを押すチンパンジーと自分の姿が重なる。
道具を使いこなしているように見えて、便利な道具に生かされているだけなのだなと思う。子供の頃読んだ冒険物語の主人公達は、自分の体の延長上として道具を使っていた。仕組みを理解したうえで使いこなせるものが、本当の意味で、自分が使える道具なのだろう。
この世で一番強いのは、体ひとつで生きていける人だと思う。
前置きが長くなったが、文字通り「体ひとつで生きていける人」の話を読んだ。孫悟空ではない。茨城県と福島県の県境にそびえる八溝山に住む義っしゃんである。
『猟師の肉は腐らない』は、実話を元にした小説。
「俺」(小泉武夫さん)と義っしゃんが八溝山を歩き回り、山の恵みを食べるだけの話である。エンターテイメント的な事件はおこらないが、読み始めるとぐいぐい引き込まれる。
義っしゃんは、粗野な感じのするおじさんだが、猟をする姿は知的だ。慣れた山でも油断をすれば命を失うため、五感を研ぎ澄ませ、頭をフル回転させ最良の道をゆく。その姿は惚れぼれするほどかっこいい。
たぶん、昔はこういう人がたくさんいたのだろう。
こういう人でなければ生き残れなかったのかもしれない。