おしまい
「半年を過ぎているのだから、完全ミルクに切り替えても大丈夫ですよ」
検診で医師にそう言われ、あっけにとられたのを覚えている。
初めての子ということもあり、母乳で育てなくてはと、妙なプレッシャーを抱えていた。母乳の出が悪かったので、マッサージにも行った。
助産院はマジカントだった。清潔で静かな空間。誰もが穏やかで優しい。しかし、母乳育児の素晴らしさを語る助産師に「完全ミルクにしたら楽になると思うのですが、しても問題はありませんか?」と訊くことはできなかった。
母乳の回数を減らし、徐々にミルクに切り替えていった。おっぱい離れはうまくいくのだろうかと心配したが、娘は「飲めればいいのよ」と言わんばかりにミルクの出のいい哺乳瓶に吸いついた。
卒乳おめでとう。こうして私は娘の食べ物でなくなった。
しばらくして、赤いしるしが戻ってきた。ナプキンのストックがなくなっていたのでまとめ買いした。武田百合子さんが著書でこう記しているのを思い出した。
水筒の牛乳を代わる代わる飲んだ。ときどき思い出したようにサーチライトが二、三本、黒い丘のむこうからのび、だるそうに、しかし素早く西南の空を舐めた。
『ずーっと此処にいるつもり?』『わからない』『将来について考えたことある?』よく考えたことがないような気がするから、いま考えようとした。すると、これから先、生きていれば、必ず毎月毎月使うであろう、おびただしい嵩の白い綿と、使用済みの沢山の赤い綿が浮かんできた。武田百合子『ことばの食卓』P31
戦時中、いつ空襲がくるかわからぬ夜に、友達が闇ルートで手に入れた牛乳を飲みながらの会話である。
この文章を読むたび、ふたつのことが頭に浮かぶ。
ひとつは膨大な時間を生きてゆくこと。もうひとつは、死の匂いを嗅ぎながら飲む牛乳は快楽を含んでいるのだろうということだ。
生きるためには食べなくてはならない。食べるためには殺さなくてはいけない。食べても死からは逃れられない。この輪から外れるのは死ぬ時だ。いつ空襲がくるかわからない夜は、死に近い。人はものごとの終わりに高揚する。高揚は快楽を生み出す。
ナプキンがいらなくなった時、私は高揚するのだろうか。それとも寂しさを感じるのだろうか。覚えていたら振り返ってみよう。